【まめちゃんコラム】雛人形の歴史

岩槻の歴史や文化は様々ある中で、初回は「雛人形」についてご紹介します!

岩槻盛り上げ隊といえば、「太田資正公」や「伝令犬」を思い浮かべる方も多いかと思います。

では、岩槻といえば……?

やはり、「雛人形」ではないでしょうか。

わたし自身、雛人形屋に生まれて、雛人形を作って生活しています。

岩槻のみなさんは、当たり前に雛人形が近くにある中で生きていると思います。

雛人形は、いつから、どうして、岩槻で発展してきたのか、改めて調べてみることにしました。

雛人形や五月人形などの岩槻で作られる人形は、総称して「岩槻人形」といいます。

岩槻人形の歴史は、江戸時代から始まります。

1634年(寛永11年)より始められた日光東照宮の造営に合わせて、多くの工匠が日光御成街道の宿場町であった岩槻を訪れ、いつしか定住する者も出始めました。

人形作りが得意な工匠もいて、岩槻が人形作りの環境に恵まれていたことから、人形の町として栄えるようになりました。

ちょうどその頃、江戸では雛遊(ひいなあそび)が流行していました。

雛遊とは、紙製の立雛(たちびな)で遊ぶものだったようです。

やがて雛市(ひないち)という、雛人形などを売買する市まで立つようになります。

3月3日が女子の節句として定着し、初節句に雛人形を贈るようになると、次第に華美な人形が作られるようになりました。

岩槻では、日光東照宮の造営に関わった工匠たちの手によって、今のような豪華絢爛な雛人形が生まれたのではないでしょうか。

「岩槻といえば雛人形」となった歴史には、日光東照宮の造営と、江戸での雛遊の流行が関係していました。

昔の工匠は子供たちに喜んでもらうために、様々な技術を用いて雛人形を生み出していったのだと想像します。

300年以上経った現在にも、岩槻ではその技術が受け継がれています。

新しい技術が生まれ続ける中で、これほど長く続いている技術というのは貴重なものです。

わたしは、優しくて温かい岩槻の人たちが大好きです。

それは技術だけではなく、想いも受け継いできたからなのだと思います。

子供の幸せを願う工匠たちの優しい想いが、岩槻の人たちには根付いているのではないでしょうか。

投稿者プロフィール

まめちゃん
大豆生田 有紀(おおまみうだ ゆき)と申します。
みなさんからは、「まめちゃん」と呼んでいただいています。
この度、岩槻盛り上げ隊のWeb更新を担当させていただくことになりました。
情報をわかりやすく、いち早くお届けできるよう、頑張って更新していきます!